法話(2019年10月18日) 

 

観音経25 智慧と慈悲

 

「真観 清浄観 広大智慧観 非観及慈観 ・・・・衆怨質悉退散」

 「観」は、仏教では真理(ありのままの相(すがた))を「観ずる」ことである。つまり、無心の心でものを見る、清浄な心で何ものにもとらわれない境地でものを観るということである。

 しかし、我々は、己の利益を優先させる曇った眼でものを見てしまい、都合のよいようにしかものが見えない。仏様は短期でものをみておらず、常に遠くをみておられ、我々もこのような知恵を身に着ける必要がある。

『金剛経』では、「一切の有為法(ういほう)は、無限泡影(むげんほうえい)の如し。露の如く亦た雷(いなずま)の如し。応(まさ)に是(か)くの如きの観を作(な)すべし。」とある。これは、現実の世は、夢幻、泡沫のようなものであり、朝露が朝日をあびて消え去るように、あるいは電や雷のように一瞬の間に消えゆくものである。

 観音さまは、五つの観(五観)、つまり五つの眼を持っておられ、ありのままの姿・心理を見ておられる。

 まず「真観」とは、現実の世を、無限と観ずること、無常を観ずることである。

 次に「清浄観」とは、清らかな透き通った眼でものを見ることであるが、我々はどうしても自分の都合のよいようにしかものが見えず、どうしても他人の是非善悪がそのような視点から眼に映ってしまい、全体の相はなかなか見えないものである。

 次に「広大智慧観」とは、広大なる一切のものを観る智慧、物事の本質を見抜くことである。

 次に、「非観」とは抜苦つまり他人の苦しみを取り去ることであり、最後の「慈観」とは与楽つまり他人に楽しみを与える(利他)ことである。「他人の不幸は蜜の味」といわれ逆に「人の幸福はねたましいもの」であるが、これはつまり人の苦しみを自分の苦しみとし人の楽しみを自分の楽しみとすることである。

 「常願常瞻仰」とは、このことを常に願い常に瞻仰(仰ぎ視る)すべし、つまり、この五観を願う心をもって自分自身のものとし、常に仰ぎ視る必要があるということである。

言い換えれば、「無垢清浄光」無垢清浄の光つまり観音さまの光のように無垢清浄によって、「慧日破諸闇」慧日(えにち)諸(もろもろ)の闇を破り、「能伏災風火」よく災いの風火を伏せ、「普明照世間」普(あまね)く明らかに世間を照らすということである。

 「非体戒雷震、慈意妙大雲、澍甘露法雨、滅除煩悩焔」、観音さまの慈悲は、雷の如く雲の如く、我々に甘露(インドの神々が飲む不老不死の霊薬で、味が蜜のように甘いことから、苦悩をいやし長命ならしめる仏教の教えとして用いられる。お施餓鬼でお水をお供え物に振りかける場面があるが、この水も甘露であり、このお水を振りかけることによりお供え物が何十倍にもなり、無くなった多くの方の供養になる。)の法雨としてそそぎ、あらゆる煩悩を滅除してくださる。

 「諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散」、訴訟によって裁判所で争うときにも、または怖畏すべき戦場に中に在っても、彼の観世音菩薩の妙智力を念ずれば、一切の怖恨は悉(ことごと)く退散してしまうものである。つまり、この現実の世の中に生きる限り、夫婦や親子ケンカ、隣人との争い、国と国との戦争など、諍いが尽きないものである。しかし、観音力を念ずれは、ありとあらゆる怨みが消えるばかりか、恐怖心もなくすことができるということである。

(注)この文章は聴聞者の一人がお聞きした内容を自身の言葉で表現したものです。