在りし日の霊光上人とキクイ夫人


  

 当山開基 霊光上人は明治23年、石川県河北郡三谷村字月浦で誕生され
 ました。加賀百万石、14代藩主慶寧公の外孫にあたられます。

 幼少の頃より大変利発で、五歳の頃から論語を読み始め、観音経(仏説妙
 法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)をすぐに理解されたとのことです。

  僅か数え歳八歳のとき金沢郊外の伝灯寺裏の洞窟にて七日間の行をされ
 その後、幼いながら富山県の日石寺でも捨身の行をされました。
 成長されるとともに、更に伝灯寺や医王山などでたびたび修行され、数え歳
 13歳のとき、
奈良の生駒山頂の「白水の峯」にて70日間に渡る捨身の荒行
 を修され、人事不省となられるも山中深く狩りに入っておられた瓜生海軍中将
 (後に大将)の一行に救われ、京都近迎院住職 井上哲城 大阿闍梨のもとに
 身を寄せられました。(哲城上人の恩師、天如上人は明治天皇の相談役を務
 めておられたとのことです)

 哲城上人の弟子となられた後も、京都の阿弥陀寺をはじめ各地の霊山にて
 幾たびも厳しい修行に没頭されました。すでに余命を悟られていた哲城上人
 は、霊光上人にすべてを伝授され後継者とされました

 これは密教の真髄が中国の恵果阿闍梨から弘法大師へと伝わり、その後連
 綿と伝わる法統の後継者となられた
ということなのです。

 その後、師の遺言に従い金沢の地に由緒ある寺号「永安寺」を遇し、再興を
 果さ
れ、鶴舞山に仏法興隆のための伽藍の造営にとりかかられたのです。
 その間も、衆生済度を願って各地で精力的に布教され、石川・富山・岐阜と
 信者は増えました。

 そして、後継者と定められた霊城上人にすべてを引き継がれ、上人自らの
  
予告のとおり昭和44年11月1日入滅されました。
   その後も伽藍の造営は進み現在に至ります。

  霊光上人は、生前常々説かれました。

  「ただただ仏法を信じ、仏法をよく護り、仏法に尽くせ。
          しからば釈尊の説かれた大無量寿経のすべてを会得できる」 
                             
  八十年の生涯を、一心に仏法興隆と衆生済度に捧げられた
              偉大な聖者として、今も人々の心に生きておられます。

        

         無上甚深微妙の法は
           百千万劫にも遭い遇うこと難し
             我れ今見聞し受持することを得たり
                願わくば如来の真実義を解したてまつらん

                      

                          合掌