永安寺のお講

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鶴舞山 永安寺

 
 

  法話(2019年7月18日) 

 

今日は「信」、信じることについてお話します。前回の悪人往生の続きになります。

 

「宗教は阿片であり、人間の正しい判断を麻痺されるもの」 ― マルクス(ドイツの哲学者)

「信じれば神、信じなければただの石ころ」 ― ヒンディー語(インド)の諺

「鰯の頭も信心から」 ― 日本の諺

 

日本の諺は鰯の頭のように取るに足らないものでも信じる気持ちがあれば尊いものに見えると言う意味ですが、節分に鰯の頭を刺した柊の小枝を戸口に掲げて鬼を退散させた風習からきた言葉です。

マルクスの言葉もヒンディー語の諺もどれも信仰心を表しています。

 

これらを鑑みると、人間の生き方は大きく3タイプに分けられます。

 

①   自然的生 = 「本能」で生きる 巣を作り、食べ、異性を求め、眠る。動物と変わらない生き方。

②   文化的生 = 「知性」で生きる食べるにしても煮込んだり、味付けをしたり、お皿に盛ったり。より快適な生き方。

③   宗教的生 = 「信仰心」を持ち、神・仏を信じ、祈りを捧げ、善行を積む生き方。

 

神や仏を畏れたり、その力を持つ者をお祀りし、その力を借りて悪魔を祓ったり、また幸せを求めたりする行為が「信仰心」です。

 

 

「仏法の大海は信を以って能入と為し、智を以って能度と為す」 ― 『大智度論』竜樹

 

仏法という真実の世界に入るには「信」をもっていなければならず、真実の世界に導くには「智」が必要です。

 

「生死の家には疑いをもって所止となし、涅槃の城には信をもって能入となす」 ― 『選択集』法然

 

 生死涅槃をくり返すこの迷いの世界から仏教を疑っていればいつまでも出られない、迷いの世界から悟りの世界に行くには信じる心が必要です。

 

 これら二つの教えからは「信」がなければ悟りの世界には入れないぞ!ということがよく分かります。

つまり、自己確信をもとに自らの修行によって心をコントロールして悟りの世界に入る自力聖道門の「信」も、阿弥陀さまの本願によって救われようと強く願う他力聖道門の「信」も目指すところは同じなのです。

 

 

「真実信心は即ち是れ金剛心なり。金剛心は即ち是れ願作仏心なり。願作仏心は即ち是れ度衆生心なり」 ― 『教行信証』親鸞

 

 真の信心とは金剛のように堅固不壊の心です。金剛の心とは悟りを得て仏になることを願う心です。悟りを得て仏になることを願う心とは衆生を救い悟りに導く心です。

 仏教においての「信」とは、「信・解・行・証」の一歩目のことです。「信」…仏の教えを信じて、「解」…仏の教えを学び、「行」…実行し、「証」…体得していく。つまり衆生救済のために「弥陀の本願」により多くの人を導いていこうとする心も大きな「信」なのです。

 

 

「一念発起、平生業成」「一念発起、住正定聚」 ― 『御文章』蓮如

 

 信心を起こすことで現世で死ぬ前に往生することが決まります。信心起こした時に浄土に往生することが正しく定まり、仏になる位を得られます。

 

 

 人は死んだあとに成仏すること以外にも色々と願いがあります。

 先日、この永安寺でお百度参りをしたいという方から作法を尋ねられました。その中でお礼についても聞かれましたが、願いを叶えてもらう「今」ではなく、願いが叶った「後」に相応のお礼をして下さいと答えました。一番大切なのは、仏様にお礼をすることです。

 では、仏様に願いを叶えてもらうためにはどうすればよいのでしょうか。やはり、仏様も「信」のある人の願いを叶えたくなるのではないでしょうか。「信仰心」をもって行動に移しましょう。どんな行動をするかは、人それぞれです。勤労奉仕に参加されるもよし、家の仏様を日々お参りするもよし。みなさん行動していきましょう。

(注)この文章は聴聞者の一人がお聞きした内容を自身の言葉で表現したものです。  

永安寺護持会