法話

  法話(2013年12月18日) 


お釈迦様の聖地


ルンビニー・藍毘尼(生誕の地)

2500年前 お釈迦様の母であるマヤ婦人が当時のインドの習慣により出産のために里帰りをします。その途中に沐浴のためによったこの地で出産されました。(紀元前463年が有力とされています。)

1896年まではお釈迦様の生誕の地はわかっていませんでした。しかし、アショーカ王の法勅文を刻みつけた石柱が発見されたことでルンビニーが生誕の地とされました。

ブッダガヤ・仏陀伽耶(成道)・・・世界遺産

カピラ城を29歳で出て出家され、ブッダガヤ郊外の前正覚山で5年間苦行をされるが悟りを開けませんでした。そして、尼蓮禅河を渡り、35歳の時に菩提樹の樹の下で瞑想をされ、7日後に成道。悟りを開かれました。

サルナート・鹿野苑(初転法輪)ベナレス郊外
 

一番最初に悟られて説法した場所。ブッダガヤ郊外で5人の修行僧と共に厳しい修行をされていたが、悟りが開けなかったので自分だけそこを離れ、サルナートで悟りを開かれた。その後、修行僧の所に戻られ、自分の開いた悟りを説法された。

ベナレス・・・ヒンドゥー教徒の聖地

ガンジス川のほとりのガート(火葬場)で荼毘に付され灰をガンジスに撒かれれば永遠の輪廻から解脱できると信じ、瞑想にふけり、沐浴する。

クシナガラ・拘尸那揚羅(涅槃)

お釈迦様が80歳の時にラジニールからカピラヴァストゥ(故郷)を目指されていた旅の途中で力尽きて亡くなられた場所。その時の最後の教え「すべてのものは移りゆく無常である。怠ることなく修行を実践し成就しなさい。」

ラジギール・王舎城(マガダ国首都・布教伝道)

ビンビサーラ王がお釈迦様に深く帰依され布教活動の保護のため竹林精舎を寄進し、毎朝、出向いていたが、年を重ねると出向くことが難しくなり、お釈迦様の勧めにより自分の王宮の中に塔を作って拝むようになりました。これが仏塔の一番最初です。

サヘート・マヘート・祇園精舎・舎衛城(僧伽の拠点)

祇園精舎・・・スダッタ長者がジェーダ太子の所有するマンゴ園に黄金を敷き詰め買収し、お釈迦様へ寄進しました。

舎衛城・・・・コーサラ国の都跡。プラセナジト王が治める。

サンカシャ・僧伽舎(仏伝の舞台・三道宝階の地)

マヤ夫人はお釈迦様の誕生1週間後にこの世を去られる。お釈迦様は霊界の母君に法を説く事を念願され、ある時祇園精舎の香室より昇天。3か月説法をし、3ヶ月後にこの地に降り立たれた。

ヴァイシャリ・広巌城(最後の旅路・猿王奉密の地)

お釈迦様が、ラジニールからカピラヴァストゥを目指す旅の途中にちょうど雨期になり3カ月間滞在することになります。その時に猿王がマンゴの木から蜜を集め奉納しました。

お釈迦様はこの地に着いた時にはすでに体調が悪く、自分がなくなった後のことを語られました。それが「自灯明・法灯明」です。

現在インドの人口は約12億人以上で、その中で80%がヒンドゥー教です。仏教徒は他の宗教も含1.9%しかいません。昔、古代インドには四姓制度があり仏教は普及しませんでした。もし、インドで仏教が普及していたならば、たぶん法は中国から日本には渡って来なかったでしょう。

現在、インドではカースト制度が存在し、来世はより上の階級に生まれ変わるのを信じ、人々は修行を積んでいます。

ある方が、「日本では、いろいろな環境が整っている施設があり良い指導者もいる。だからがんばってオリンピックを目指せる。それは非常にありがたい。いくら、がんばりたくても環境が整っていなかったり、指導者がいないでは、オリンピックを目指せない。だから自分はがんばろうと思えるし努力出来る。」と言っていました。

しかし、インドの下級層の人々は日々の生活で精一杯でがんばろうと思う事がありません。我々は恵まれていて幸せです。我々の考え方は「努力すれば幸せになれる。幸せだから努力出来る。」しかし、努力しようにも出来ない人々がいます。それを忘れてはいけません。

(注)この文章は聴聞者の一人がお聞きした内容を自身の言葉で表現したものです。